貴方が纏う空気こそ


リカルドが纏う空気が、ルカは好きだった。
本人は自分は戦場しか知らない無骨な人間だと言及して憚らないが、ルカは違うと思っている。
本当にそんな人ならば、身体を休めているような時間であっても、纏う空気は殺伐とした匂いを消すことが出来ないはずだ。
けれど、実際には、今、宿屋の一室で寛ぐリカルドが纏っている空気は酷く穏やかなものだ。

ルカはそっと頬を緩め、自分とリカルドの分の紅茶を淹れるべく、ティーポットを手に取った。
宿屋の計らいで各部屋にはティーセットと手作りのクッキーが置かれていた。

茶葉をスプーンで三杯掬って、ガラスのティーポットに入れる。
一杯目は自分の分。二杯目はリカルドの分。そして、最後の三杯目はポットの分。
紅茶はそうして淹れるのだと、母から教わった。
本当はティーポットやカップを湯で先に温めておいた方がいいのだが、テーブルの上に用意されているポットに入っている熱湯の量が少しばかり足りなくなりそうだったので、ルカは残念に思いながらも、妥協することにした。
茶葉もそう質のいいものではない。
いつか本当に美味しい紅茶をリカルドに淹れてやろう、とこっそり思う。

ティーポットに熱湯を注ぎ、蓋をして茶葉を蒸らす。
ガラスのポットの中で、茶葉が踊るのを見守る。
背後でカチャリ、と硬質な音がした。
リカルドがライフルの手入れを始めたらしい。
僕も剣の手入れしないとなぁ、とルカは色づいてきた湯を眺めながら、呟く。

魔物や人の身体を切り裂いた剣は血で曇り、膏(あぶら)で切れ味は鈍くなる。
相手が硬い表皮や鎧を纏っていれば、刃毀れだってしてくる。
夢に見るアスラの日常に、そういった些事が出てくることはあまりない。
もしかしたら、些細なことは夢に見たとしても忘れてしまっているだけなのかもしれないが。

それ故に、剣の手入れの仕方を、ルカは知らなかった。
必要であるとも思わなかった。

ルカの小柄な体躯がぶるりと震える。
向かってくる敵を切り伏せることにもう迷いはない。
そうしなければ殺されるのは自分だ。前世の生々しい戦いの記憶も、魔物や人を相手に剣を振るう嫌悪をルカから取り除いている。

それでも、ふとした瞬間、奪った命の重さを思い知る。
剣に染み込んだ血。膏。断ち切った肉の感触。骨の硬さ。
ドクリと心臓が跳ねる。目の前が一瞬、白く濁る。

「ミルダ」

背に掛けられた声に、ルカはハッと我に返った。
鼓動の早い心臓を服の上から押さえ、リカルドに頷く。
顔を向けることは出来なかった。
血の気が引いているに違いない。

「…煮出しすぎじゃないのか?」
「え、あ…あー…うん」

ガラスのティーポットに、散っていた焦点を合わせる。
リカルドの言うとおり、色の濃すぎる紅茶がそこにあった。
濃い茶色は見るからに渋そうだ。

「…淹れ直すよ」

ミルクティーにするなら濃い目がいいとはいえ、いくらなんでもこれでは濃すぎる。
湯が足りるか不安だが、一杯の量を減らせば二人分くらいにはなるだろう。
ため息を零しつつ、ティーポットの取っ手を掴む。
ふわりと立ち昇る紅茶の香りがルカの波立った感情を柔らかに凪いだ。
肺一杯に香りを吸い込み、ゆっくりと息を吐く。
澄んだ香りに胸が空く。
ホッとする。
ルカはティーポットのフタを開けた。
紅茶の香りがより一層濃さを増す。

「…ミルダ?」

フタを持ったまま、動かないルカにリカルドが訝しげに声を掛ける。
うん、とルカは曖昧に頷く。振り返った方がいいことはわかっていた。
けれど、身体は動かない。
温かな紅茶の香り。
これは、日常の香りだ。母が淹れてくれる紅茶の香り。
するはずのない、焦げたチーズの香りがルカの鼻腔を擽る。

「…ミルダ」

ス、と背後から伸びてきた手が、ルカの手からガラスのフタを取り上げた。
熱くなっていたそれは、ルカの指先を赤く染めている。
そのことに顔を顰めたのは、リカルドだけだ。
ルカは気づかないまま、視線を足元に落とす。
カチンッ、と音をさせ、フタはポットに戻された。

「熱くなかったのか」

赤い指先が、そっとリカルドの右手に包まれる。
リカルドの体温の低い手が心地いい。

(あ、手袋してない)
手の膏が付かないようにと、銃の手入れも手袋をしていることが多いのに、今、リカルドの手は何にも覆われていなかった。
自分のそれよりも、リカルドの手は大きく、肌が硬い。
強張っていた身体から、ゆっくりと力が抜けていくのが、ルカはわかった。
ほぅ、と息を吐く。

「指は大丈夫か?」
「…うん。平気」
「そうか」
「でも…その」

もう少し、このままでいて。
口に出来ず、唇を噛む。
恥ずかしかった。そして、我が侭だと思われるのも嫌だった。
ただでさえ面倒を掛けているのに、これ以上迷惑を掛けたくない。

(少し、ホームシックになっただけ)
ルカは自分に言い聞かせる。
ただそれだけだ。
剣を振るう恐ろしさから逃げたいと思ったわけじゃない。
温かな日常に戻りたいわけじゃない。

だって、戻れないことを知っている。
すべてを終わらせるまで、後戻りなんて出来ない。
それは自分だけじゃない。皆がそうだ。
だから、甘えるような真似、は。

「ミルダ」

つ、とリカルドの左手が顎に触れ、持ち上げられた。
左手も手袋を外している。
自然と上向きになった目に、リカルドの顔が映る。
心配そうに寄せられた眉と、──目の奥にちらつく苛立ちを、ルカは見て取った。

「リカ、ルド?」
「何でもかんでも背負えばいいというものではない」
「……僕は」
「倒れそうなときは倒れてくればいい。お前一人、いくらでも抱えてやるさ。頼っていい。…頼れ」

ふ、とリカルドが笑みを零す。
労わりに満ちた笑み。
ああ、とルカは吐息した。
やっぱりリカルドは優しい。
包まれていない左手を伸ばし、リカルドの頬に触れる。

「…ありがとう、リカルド」
「ああ」

ルカはふわりと微笑み、身体を倒した。
そのまま、リカルドの胸に倒れこむ。
すっぽりとルカの身体はリカルドの腕の中に収まった。

「ありがとう」

本当に本当に。
ルカは笑みを零したまま、目を閉じた。
リカルドにふわりと抱き上げられるのがわかったけれど、瞼は閉ざしたままだ。
紅茶を淹れ直さなきゃと思ったけれど、リカルドの腕の中、緩やかな眠りが降って来る。
自分が疲れていることを知る。
リカルドが纏う空気は、ルカを安心させて止まない。

「おやすみ、ミルダ」

ルカと呼んで欲しかったな、と思いながら、ルカはリカルドの肩に頬を摺り寄せ、眠りに落ちた。
唇に掠めるような口付けが落とされたことに、気づかぬままに。


END