酌をどうぞ


子どもが向けてくる無垢な視線に眩暈がする。
あからさまな信頼の眼差し。
自分が裏切られていたのだと知ったとき、あの目はどうなってしまうのだろう。
悲しみか、怒りか、軽蔑か。
何にせよ、二度と今のような無償の信頼を向けられることはないだろう。
けれど、願わくば。



*****



宿の主人ですらも寝静まった宿屋のロビーで、リカルドはバーボンのビンを傾けた。
粗く削った氷を入れたブリキのカップに、トポトポと音を立てて琥珀色のそれが溜まっていく。
氷がカランとカップの中で崩れた。
二、三度、カラカラと氷を回し、カップの縁に口をつける。
指三本分注いだそれを、リカルドは三口で飲み干した。
喉が灼ける。
吐息し、また新しく注ごうとしたところで、バーボンのビンはサッと白い手に奪われた。

「……」

目を眇め、白い手を追う。
両手でビンを持ったルカが、眉間に皺を寄せて立っていた。
ランプの明かりは、リカルドが腰掛けるソファの周囲を丸く照らす程度に絞ってあるため、輪から外れたルカの全身は薄闇に覆われている。

「…まだ起きていたのか?」
「それはこっちの台詞だよ」
「ガキと一緒にされちゃ困るな」

茶化すように言い、ビンを渡せと手を出す。
けれど、ルカは首を横に振った。
まさかもう飲むなということだろうか。
訝しげに眉根を寄せれば、ルカの身体がするりとリカルドの横に滑り込んできた。

「……」

わけがわからず、リカルドは困惑の視線をルカに向ける。
けれど、ルカはその視線に答えることなく、カップを手に取り、リカルドに押し付けてきた。
押し付けられるままに、それを受け取る。

「ちゃんと持って」
「あ、ああ」

諾々と傭兵は少年に従った。
逆らうには、少年が纏う空気が重い。
普段、ほわほわと穏やかな空気を纏っているだけに、その違いは顕著だ。
薄々、ルカがしようとしていることを察しながらも、その理由がわからず、リカルドは首を傾げる。
トポポ…、とビンからバーボンがカップへと注がれた。
最後にくるり、とビンを回し、雫を切るルカの手際はなかなかのものだ。
父の酌をしていたからだと、以前、聞いたことを思い出す。

「どうぞ」
「…戴こう」

指一本分ほどしか注がれていないことを確かめ、一息で煽る。
ごくりと嚥下し、カップを膝に下ろせば、またトポポ、と酒が注がれた。
今度は先ほどよりも多い。

「どうして一人で飲むの、リカルド」
「どうしてと言われてもな…。セレーナも酒は飲めるが、あっちはワイン専門だろう」

俺はこっちの方が好みなんでな、とカップを揺らす。
カラララ…。澄んだ音が静かなロビーに響いた。

「アンジュと飲め、なんて言ってない」
「だが、他には…」
「そうじゃなくて。…どうして僕に酌させないの」

眉を跳ね上げ、目を瞠る。
ルカが拗ねたように唇を尖らせ、リカルドを睨んだ。
思わず、カップを取り落としそうになり、慌てて左手を添える。
ブリキのカップは冷えきっていて、表面に水滴が浮いている。

「…お前は」
「うん」
「嫌じゃ、ないのか」

上擦った声に、己が少なからず緊張していることを知る。
この子どもに振り回されていることを改めて自覚する。

「…どうしてそう思うの?」
「それは…」
「僕は、リカルドが遠くなる方が嫌だ。リカルドが一人になる方が嫌だ」
「ミルダ…」
「前と同じように、僕に酌させてよ。一人でこんなところでなんて、寂しいじゃないか…」

俯くルカに、リカルドは目を細めた。
そうだ。この子どもはこういう子どもだった。優し過ぎる子ども。他人が背負うべき痛みすらも、自らが背負おうとしてしまう、哀れで不器用な子ども。
ああ、まったく、見ていて歯痒くなる。

「ミルダ」

手を、ぽん、と子どもの頭の上で跳ねさせる。
いっそ怒鳴り散らしてくれていいのだ。罵ってくれていい。
それだけのことを自分はした。
無垢な信頼を裏切ったのだ。
二度と、信じられるものかと頑なに拒絶してくれたってよかったのだ。
けれど、子どもはそれをしない。
受け入れて、微笑むのだ。
──もし立場が逆であったなら、受け入れないでと逃げ出すくせに。
強いんだか、弱いんだかわからないな、とリカルドは苦笑する。

「酌を、頼む」

パッ、とルカの顔が上がる。
その顔に見る間に笑みの花が咲いていくのを、リカルドは見守った。
穏やかに細められた翠の目に浮かぶのは、変わらぬ無垢な信頼。
せめてもう少し疑いを持ってくれたなら、手も出しやすいんだがなどという考えは胸の内に仕舞い、カップを差し出す。
ルカが嬉しそうに酒を注ぐ。
頭を撫でてやれば、ホッとしたようにルカが息を吐いた。

(なるほど。ミルダもミルダで緊張していたわけか)
確かに、昔のこの子どもならば、酌させろ、などと迫ってこないだろう。
成長しているということなのだろう。
或いは、自分たちの間の絆を信じてくれているからか。

(…願わくば)
すべてが終わったあとも酌を──いや。
いつか、ともに酒を飲み交わせる日が来ることを、俺は望もう。
裏切り者を受け入れてくれた少年が酌をした酒で、リカルドは喉を灼き、身体を熱くさせた。


END