愚かしい臆病者


向けられる無垢な信頼に、漏れそうになったため息を、リカルドは強引に飲み込んだ。
居た堪れないほどに、ルカが自分へと向けてくる視線は無垢な翠。
キラキラと澄みきって輝いて見えるのは、自分の目がどうかしてしまったからだろうか。
見るからに柔らかそうな頬や唇に指先で触れたいと思うのも、どうかしているからなのか。

「ねぇ、リカルド。パイングミ、これくらいあれば足りるかな」
「ああ、そうだな。十分だろう」
「じゃあ、買ってくるね」

頷き、籠を抱えて、レジへと小走りで向かうルカを見送り、リカルドはやっとため息を吐き出した。
あの無垢な視線はどうにかならないものだろうか。
いっそ塞いでしまいたい。
右手であの目を覆って、そして。

「…何を考えてるんだ、俺は」

リカルドはまた深々と嘆息し、首を振る。
あの無垢な信頼を裏切ることだけ、もう二度とすまいと自身に誓ったのは己だろうに。

(あまりに無垢だからこそ、か)
ベルフォルマやアニーミがミルダをからかうことを止めない理由がよくわかる。
ただ自分の場合、よりたちが悪いのは否めない。
雄の欲とでもいうべきものが身の内に渦巻いているのだから。
そんなものをぶつけるには、ミルダは幼すぎる。

「リカルド?どうかしたの?」
「…いや。終わったか?」
「う、うん」

ことりと首を傾げ、不思議そうに見上げてくるしぐさに頬が引き攣りそうになるのを耐え、努めてポーカーフェイスをリカルドは気取る。
そして、その表情を保ったまま、ルカが腕に抱きかかえた紙袋の一つを取り上げた。
あ、とルカが声を上げる。

「僕、持てるよ?」
「なるべく利き手は開けておいた方がいいからな」
「そっか…。そうだね」

左手に紙袋を持ち、右手をグーパーと握っては開いて、ルカが頷く。
リカルドはそんなルカを促し、店の外に出た。
潮風が穏やかに頬を撫でていく。
海に囲まれたアシハラは、いつでも潮の香りに包まれている。
穏やかな国だと思う反面、沈みつつある島であることが惜しまれる。
このままでは、いつか消えてしまう国だ。儚さが常に漂っている。

「いざというとき、困るもんね。両手が塞がってたら」
「ああ、そうだ」
「やっぱりリカルドは頼りになるよね」
「……なんだ、いきなり」
「いきなりじゃないよ。いつでも思ってるよ」

ルカが心外そうに眉根を寄せる。
浮かびかけた自嘲を、リカルドは手袋で覆った手で隠した。
どうやらルカは苦笑を隠したと見て取ったらしく、ますます眉間の皺を深くしている。

(ある意味、最強の自衛方法だな)
無垢なものを汚したいという昏い喜びがないわけではない。
いっそ汚してしまえたらとも思う。
けれど。

「…俺はそんな大層な人間じゃない」
「そんなことないよ。僕…ううん、僕たち、リカルドがいてくれなかったら、どうなってるか…」

首を振るルカの頭に、リカルドは手を伸ばそうとし──止めた。
汚したいと思う。触れたいと思う。
他の誰かのものにしたくない。それならいっそ、とも思う。
けれど、それでもやはり手は止まる。
頭を撫でてやって、それで満足出来ない己が忌まわしい。
こんな欲を抱く時点で、無償の信頼を裏切っているのに、それを隠し続ける自分も忌まわしい。

(臆病者め)
少年の無垢さも、向けられる信頼も、少年の側にいる権利も、そして恋情すらも捨てられない愚かしい臆病者。
何かを得るために、何かを失う。
そんな摂理は、当の昔に学んだことではなかったのか。
何もかも捨てたくないなどと、いつから俺はこんな卑怯な臆病者に成り下がったのだ。

「…日が暮れてきちゃったね。早く宿に帰ろう、リカルド」
「ああ…」

どちらともなく歩幅を合わせ、宿へと向かう。
どこからか食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。
夕食の準備をしているのだろう。
あと数分で、アシハラの美しい街並みは夕焼け色に染まる。
夕日はそうしてすべてを平等に染めていく。

(塗り潰してくれればいい)
この行き場のない想いを、塗り潰し、消してくれればいい。
今日の夕飯は何だろうね、と小さく笑って語りかけてくるルカにどうにか笑みを返しながら、リカルドは右の手のひらを強く強く握り締めた。
手袋越しに、微かに爪が食い込む感触がした。


END