雨に思ふ |
ぽつ、と鼻先に落ちてきた雫に、ルカは目を丸くし、天を見上げた。 いつの間にか重く澱んでいた曇天から、とうとう雨が降り出してきたらしい。 傘…、と鞄に手を伸ばしたところで、うっかり教室に置いてきてしまったことに気がついた。 思わず、呻き声を漏らす。 けれど、その間にも、雨は本格的に降り出した。 「わわっ」 タタタッ、と整備された道を走り抜け、目に付いた店の軒先に飛び込む。 甘いフルーツの香りがルカの鼻腔を擽った。 目を向ければ、熟れたリンゴが目に付いた。 「おや、ミルダさんとこの坊ちゃんじゃないか。傘はどうしたんだい?」 「あ…、その、学校に置いてきちゃって…」 「おやおや。まあ、通り雨だろうからね。ちょっと雨宿りしていきなさいな」 「すみません」 気のいい女主人に礼をする。 お得意様だからね、と女性はからからと明るい声で笑った。 そういえば、母がこの八百屋をよく利用していたな、と思い出す。 (こういうのも、人との繋がりなんだろうなぁ) あの長く短い旅を終えてから、ルカはよくそんなことを考える。 あの旅を終えるまで、考えもしなかったことだ。 自分と他人の間には、絆なんてないとそう思っていた、浅はかな自分。 絆も繋がりも、すぐそこにあったのに。 自分は一人なんだとそう思い込んで──ルカはひっそりと苦笑した。 雨はまだ止まない。むしろ、勢いを増したようだ。 雫が地面を叩く音が耳に響く。 あとどのくらいで弱まるだろう。 遊びに行くよ、と交わしたエルマーナとの約束の時間までに止んでくれるだろうか。 (……マティウス) 人との絆を感じるとき、ルカはマティウスのことをよく思い出す。 イナンナへの、世界への憎しみに凝り固まった──いや、それだけを持って転生した半身。 彼女は、己の前世を忘れることも切り離すことも割り切ることも出来なかった。 イナンナの顔。イナンナの身体。イナンナの声。 けれど、記憶は憎悪を滾らせた魔王のもの。 どれほどの苦しみか、想像も出来ない。 そして、思う。 マティウスは自分はアスラだと言っていたけれど、心の底から魔王と化した、一瞬のアスラの記憶だけしか持っていなかったのではないのだろうか、と。 イナンナやデュランダルやヴリトラ、そして、サクヤやオリフィエルと結んだ絆の記憶も、彼女は持ち合わせていなかったように思う。 だからこそ、創世力の在り処を知らなかったのではないのだろうか。 天上の場所すらも記憶になかったから、イナンナの転生者であるイリアを狙い、もう一人のアスラの転生者である自分を求めたのではないだろうか。 (…だけど、さ) だけど、とルカは口の中で呟き、足元に視線を落とす。 銀色の前髪がさらりと揺れる。 だけど、「現世」の絆になら、きっと気づけたはずなのに。 シアンやチトセとは、絆を結べなかったのか。 全幅の信頼を寄せるシアン。ひたむきな愛情を注ぐチトセ。 マティウスだって、気づいたはずだ。けれど、彼女はそれをくだらないものとして拒絶した。 (僕とマティウスの違いはなんだろう) 同じ魂を持っているのは、確かだ。 だからこそ、自分とマティウスの間で創世力を使うことが出来なかったのだから。 創世力の番人ケルベロスの転生者たるシアンもそう言っていた。 自分とマティウスの違い──お前はアスラの『迷い』だと、マティウスは言っていた。 (それこそ、君が失ってはいけないことだったんだ、マティウス) 迷いがあるから、人は立ち止まることが出来る。 そして、また歩き出すことも出来る。 迷うからこそ、気づけるものがある。 自分がそうだった。 軒先から天を仰ぐ。 かつて、あの天から地上を見下ろす神々がいた。 神々は既におらず、天上もない。 けれど、地上はある。 人々が日々を過ごす、この大地が。 この大地で、共に生きることは出来なかったのだろうか。 (僕は願うよ、マティウス) 空に雲の切れ端が見えた。 そこから微かに光が漏れている。 雨はもうまもなくあがるだろう。 雨脚も随分と弱くなってきた。 「すいません。このリンゴ、四つください」 「はいよ。ありがとねぇ」 「いえ…。こちらこそ、雨宿りさせてもらって…。ありがとうございます」 「一個、おまけしとくよ」 「あ…。…ありがとう、ございます」 紙袋にリンゴを詰め、笑顔で差し出してくれる主人にガルドを渡し、ルカも笑う。 こういう人との繋がりを、きっとマティウスだって持てたはずなのだ。 (願うよ、僕の半身) もし、君が生まれ変わることがあるのなら。 この大地に再び、生れ落ちてきたときは。 どうか、幸せに。もう前世に囚われることなく、自身の現世を生きて欲しい。 チトセ。彼女にも願う。どうか幸せになって欲しいと。 今度こそ、彼女だけの人に巡り会えることを祈っている。 「ああ、雨もあがったみたいだねぇ」 「ええ、よかった」 ゆっくりと雲が割れ、遮られていた光が差し込んでくる。 晴れた空に、虹は出るだろうか。 ルカは女主人にぺこりと頭を下げ、店の外に出た。 パシャリと靴が小さな水溜りを踏む。 「怒ってるかなぁ、エル」 それとも、心配してやきもきしているだろうか。 リンゴで許してくれるといいんだけど。 苦笑し、ルカは青を覗かせる空の下を走り出した。 END |