不安と焦燥と |
早く医者として独り立ちしたい。 それがルカの目下の目標だ。そのための努力は惜しまない。 寝る間も惜しんで勉強に勉強を重ねている。 ──惜しみすぎて、倒れかけ、ルカの母からそれを知らされたリカルドが、商用もあってレグヌムに姿を見せた。 ルカにとって私室は憩いの場所である。 が、今日ばかりは酷く重苦しい空気が満ち満ちていて、気が休められそうな様子はない。 こくりと唾を飲み込み、ルカはテーブルを挟んで向かいに座ったリカルドをそっと窺った。 「あの…リカルド?」 「……」 無言の沈黙が耳に痛い。 何でもいいから話してくれないだろうか。 母も紅茶を置いていったっきり、戻ってくるような気配はない。 居た堪れない。ううう、とルカは唸る。 怒って、いるのだろうか。 「お、怒ってる?」 「何故そう思う」 「う、それは、その…」 「つまり、怒られると思うようなことをした、と自覚しているわけか」 「うぅ」 片頬を皮肉たっぷりに吊り上げるリカルドに、ルカはますます縮こまる。 正座した腿に拳を乗せ、俯く。 怒らせてしまった。 きゅ、と唇を噛み締める。 鼻の奥がツンと痛む。 泣くな、とルカは自身に言い聞かせた。 もう子どもじゃない。泣いてばかりだった子どもじゃないんだ。 リカルドの前で、これ以上、無様な姿を晒したくはない。 きつくきつく唇を噛む。 テーブルの上で、どちらにも飲まれることのない紅茶が見る間に冷えていく。 湯気はゆっくりとたなびくのを止め、ただ香りだけを漂わせている。 「…そんなに焦るな」 「……」 「焦って身体を壊したら、元も子もないだろう」 「……」 諭すように、ぽつりぽつりと言い募るリカルドの言葉は、正論だった。 それはルカもわかっているのだ。 わかってはいるけれど、焦らずにはいられない。 気は急くばかりで、どうしていいかもわからない。 (だって…、だって) やっと、夢に手が届きそうなのだ。 医者になること。そして、リカルドの側で生きていくこと。 その二つの夢が、手の届くところにある。 ならば、と早く辿り着きたくて仕方ない。 (それに…不安、なんだ) 決してリカルドには言えないけれど、ルカは不安でもあった。 離れていた間もずっとずっと不安だった。 リカルドが誰か、自分ではない伴侶を見つけてしまったら。 考えるだけで胸が押し潰されそうになる。 それでも、医者になる道の目処が立つまでは、リカルドとともに生きていける道を自分で勝ち得るまでは、会うわけにはいかないと、固く自分に誓って進んできた。 けれど、リカルドは一人でいてくれた。自分に会いたかったとも言ってくれた。 どれだけ幸せだったか、リカルドは知っているのだろうか。 どれだけ会いに行くのに勇気が必要だったか、知っているのだろうか。 今だって、不安なんだと知っているのだろうか。 (信用してないわけじゃない) それでも怖い。 ぐ、と拳に力が篭る。 やっぱりリカルドだって女性の方がいいんじゃないのかなとか、自分の知らないところで病や怪我に倒れてしまうんじゃないかとか、不安は何度打ち消しても、幾つも幾つも湧いてくる。 どうしたらいいかわからない。 そして、また気の急くままに、無理を重ねてしまう。 悪循環だと、わかっている。 ルカはぎゅ、と目を閉じた。 涙が零れ落ちないよう、ひたすら願う。 リカルドが今、どんな顔をしているか、見る勇気がなかった。 「…まったく」 はぁ、とため息が、聞こえた。 ビクリとルカの身体が震える。 呆れられてしまった。 自己嫌悪で吐き気がする。 リカルドが立ち上がる気配が続いた。 行って、しまうのだろうか。 (どうしようどうしようどうしよう!) 嫌われてしまったに違いない。 どうしよう、子どもの相手などしていられるか、と呆れてしまったのだろうか。 どうしよう、どうしたら。 (……え?) 不意に、ルカは温もりを感じた。 背中をぽんぽん、と優しく叩かれる。 恐る恐る目を開ければ、先ほどまで離れて座っていたはずのリカルドの服がすぐ目の前にあった。 瞠目し、息を呑む。 ルカは、優しく抱き締められていた。 「俺はいつでも、いつまでも、お前を待っている。だから、自分のペースで頑張ればいい」 「……」 「どれだけ掛かろうと構わん。五年もお前を忘れられずに生きてきたんだ。今さら、三年、四年、待てないわけないだろう」 「…リカルド」 「いつまでだって待っている。安心しろ」 (…ああ) 涙を耐えていたはずの目から、ポロポロ涙が零れ落ちる。 溢れ出る思いそのままに、涙は次から次へと止まらない。 ああ。ルカはゆっくり息を吐く。唇が震え、吐息も震えた。 (どうして、リカルドは僕の欲しい言葉をくれるんだろう) どうして欲しい言葉を知っているんだろう。 背で弾む手のひらも、なんて優しい。 「…ありがとう」 好きになったのがリカルドでよかった。 リカルドが、いい。 優しいこの人が、いい。 「ありがとう…」 リカルドの胸に頬を押し付け、背中に腕を回して。 ルカは声を上げ、子どものように泣きじゃくった。 喉が時折ひくりとしゃくりあがる。 リカルドの手が、そんなルカの背をずっと撫で続けていた。 END |